ハーベスト・ムーンのプロフィールを何か書こうと思ったのですが、結局以下の文が一番我々を的確に表現できている様な気がしたので、全く無断で某MS誌1989年8月号の記事を引用させていただきます。。
 尚、時代と共に変化する不的確な表現は○○○としてあります。

ラッコ物語

 

 時は1987年6月、1人の少女が、練習場のドアをノックした。
「トントン」
「ハイ、開いてますよ」。僕が応えた。
そしてドアを開けて入って来たのはなんと、少女に見せかけた○○○だった。彼女は開口一番、
「私を、仲間に入れて下さい」
「君は、何か、弾くことが出来るかい?」。ピーターが尋ねた。
すると彼女は、押入れからおもむろにフトンを取り出し、床一面にひきつめた。
「私にひけるのはこれだけです」。そして
「やさしくしてね」と、口を震わせながらつぶやいた。
 その後、順調に演劇の練習を重ね、いざフェスに出演となったが、大きな落とし穴が僕たちを待っていた。そう、ブルーグラスのフェスに、演劇だけでは、ダメなのだ。音楽が必要なんだ。
「うっかりしてたわね、ピーター」
「ほんとだ、全然気付かなかった」ただのバカだ。
どうにか全員楽器を持ちはしたものの、バンジョーが足りない。

 1988年5月、1人の男が練習場のドアをノックした。
「トントン」
「ハイ、開いてるわよ」ナンシーが応えた。
ドアを開けて入って来たのはなんと、仏さんの様におでこにホクロがあり、人差し指を立てた、ただの○○○であった。
「僕も、仲間に入れてくれよ」
「何か弾いてくれなくちゃイヤッ」ナンシーが言うと、彼は突然テニス・コートのローラーを引っぱり出した。
「根性はありそうね」ナンシーはつぶやいた。

 1988年5月22日、京都・円山のブルーグラス・フェス。そこで更に大きな落とし穴が僕たちを待ち受けていた。バンド名がなかったのだ。

 1曲目を演奏し終えて、僕がMCをすることになった。
「こんにちは、みなさん…」僕はそこで絶句した。後ろでナンシーが、
「そういえばバンドの名前何だっけ?」
「まだ、なかったんじゃないか」ピーターがいい加減なことを言っている。
「『ラッコ物語』なんて、いいわね」
僕はそれを聞いて思わず「ラッコ物語です」と言ってしまった「しまった'」と思ったがもう遅い、僕はラッコに似ていたのだ。お客は笑っていた。
 ともあれ「ラッコ物語」というバンドがスタートした。が、やはり気に入らない。「ピーマン101」「Bein'Border(貧乏だ)」「とんこう」「うちでのこづち」と1曲ごとに名前を変えた。ようやくステージが終わる頃rハーベスト・ムーン」という名前が登場し、現在に至る。と共に劇団「しき、せまる」という別名も保有している。この年順調に岐阜、宝塚、箱根のフェスに出演するが、宝塚では「スナックなおみ」を開店したため、カラオケ以外の記憶はない。

 フェス・シーズンも終わろうとしている1988年9月、ナンシーは僕たちに衝撃の告白をした。
「みなさん、お世話になりました。次の満月の夜、私は中国に帰ります」
「えっ、君は中国の人だったのか」ピーターは驚いた。
「ソウ、ワタチハ、チェコクハヒロチマノウマレ、ナマェナンチペキンイイマス」
僕たちは二度驚いた。なんと、あのインチキ手品師と名前が似ていたのだ。
 1988年9月27日、京都ホンキー・トンクで第1回解散コンサートを開催。40人の客から会費をぼったくる。そして1988年10月1日、宝塚秋フェスを最後に涙の解散をした。やがてナンシーは中国に帰ってしまった。
 しかし、ピーターはあきらめきれず広島まで電話をして、ナンシーを口説いた。その時の模様を後日ピーターはこう語る。
「もしもし、ナンシーかい」
「あらピーターどうしたの、こんなに遅く」かなり深夜だったらしい。
「いやあ、どうしても聞いておきたいことがあってね」
「なあに」
「はずかしいなあー」
「なによ、男らしくないわねえ、はっきり言ってよ」
「じゃあ、聞くけど、正直に答えてくれよ」
「もちろんよ」
「あのー、おまえ、今、何色のパンツはいてる」
「ガチャ」
この時のピーターの胸中を察すると、涙が出る思いである。
 これでハーベスト・ムーンも終わりかと思った1988年10月22日、米原ブルーグラス・コンサートで、ピーターの説得が効を奏したのか、ナンシーが中国は広島からやって来て、「また私を、自由にして」ともだえた。ここに僕たちは不死鳥の様に甦ったのだ。

 それからというものやる事なす事トントン拍子に進み、といってもパンダのリズムではない、遂にレコードを創ることを決意し、ナンシーは京都と広島を何度も行き来し、血の出る様な練習をこなしたのである。また僕たちは作曲活動にも励んだ。
ピーターとナンシーの、常人の理解を越えた友人愛を唄った"Peter&Nancy"
広島にいるナンシーの胸中を唄いあげた"IBelongToThatMusic"
また、お月見をしていたピーターが思いついた"HarvestMoon"と、
スキーでころんだ時に出来た"Yuki Usagi"の2曲のインスト。
その他、すべてオリジナル・アレンジで、バラエティーに富んだ僕たちのすばらしい名盤が、この夏、BOMサービスから発売される。
(1989年当時)

 ここで、ハーベスト・ムーンのみんなにインタビューしてみた。
「私は、やっぱり、こんな女の子らしい音楽がやりたくて、うずうずしてたの。だから、うれしい」と、年に似合わずブリッコしながらナンシーは言った。

 ピーターは「もっと余裕があったら、もう一発やって、スッキリしたい」。何のこっちゃよくわからんが、また、こんなことも言っていた。「僕たちの音づくりはバランスが大切だ。そういう意味で、ハーベスト・ムーンのミックス・ダウンは大変苦労した。そして、僕らの音楽は全力疾走ではなく、ジョギングだ」と語り終えた横顔に、男のダンデイズムを感じたのは僕だけだろうか。

 また、もーちゃんはこう語る。「荻野目洋子とは、もーちゃん、おぎのめちゃんと呼び合う仲なんですよ。でも、まだ直接会ったことはありませんけど」それがどうした、とつっこみたい気持ちを皆ががまんしていた姿に、僕は友情という言葉の意味がわかった気がした。

 そして、おのちゃんは「もしもし、そうそう、だからエー、そのー、まかせるわ」と、両手をひろげ空にかざし、スイカを表現してくれる。その無意味な存在こそ、我がバンドの源動力でもある。

 「僕らはフェミニストです。初めて作詞をしてうれしかった。見てて気分のいいバンドはいいバンドです」と、バイオリンのちょっちゃんは言いたいことだけを言ってくれた。本当に変な人たちだ。

ここで彼らを紹介しよう。
ここの章はメンバーのページにて、クリック

 レコードにはクレジットしなかったが、多田木勝男(BOSSリズム・マシーン)はリズムは正確だが、人間味がない。その他、ドブロのアンドレ佐藤、バンジョーの山本雅幸、沢田直隆、マンドリンの宮崎勝行がサブ・メンバーとして控えているが、みんな大変迷惑しているようだ。
 最後に、僕たちはどんなことにも(たとえそれが常識をはずれていても)真面目に取り組んでいる。真面目すぎて、上に「不」がつくくらいだ。レコードは僕たちのある一面だけを記録したものであり、僕たちを本当に知ってもらうには、ステージをぜひ見て欲しい。全国の皆様、僕たちをあなたの街にぜひ呼んで下さい。お問い合わせは、植田雅也まで
すぐ、植田にメールしてハーベスト・ムーンを呼んでみる。クリック

その後のハーベスト・ムーン


 その後3年ほどは何事もなく順調にライブ活動、各地のフェス参加等を重ねる。
しかし、1992年3月ナンシーから衝撃の電話が・・・・
「どうしよう、○○がないの」
「エッ」
「あたし産むわ!」
「待ってくれ!!ちゃんと医者に見せたのか?」
「3ケ月って言われたわ」
「俺も家庭があるんだ!!」
「大丈夫よ、あなたの子じゃ無いわ」
「なんだって!(でも、そう言えば何もした覚えがない)
じゃあ、誰の子なんだい??」
「旦那よ」
「そうか、それならおめでとう」
という会話があったのか、なかったのか、とりあえず1992年5月のホンキートンクライブをもってハーベスト・ムーンは3回目の解散をした。

更にその後のハーベスト・ムーン

 

 それまで、勢力的に活動していた反動でバンドが無くなる淋しさからかメンバー達の心は病んでいった。ある者は三管式の幻灯機に虚構の世界を彷徨い、ある者はお犬様に使え盲目となり、またある者はバテレンの教えに懺悔の日々・・・
 一方、心と共にその体にも容赦なく魔の手は伸びていた。ある者は髪を失い、ある者は肉布団をまとった。こんな地獄が約10年も続いたのであった。

そしてハーベスト・ムーン復活の時

 

それは、ある一通のメールから始まった。
(これも無断で全文掲載)

こんにちは。
ブルーグラスWHO’S WHOから伝言を送りました。
私は○○でブルーグラスをやっています。
失礼ですが、植田さんは以前、HARVEST MOONというバンドで活動されていましたか?そのバンドネタの歌詞が欲しくてメールを書かせていただきました。
もし人違いでしたら申し訳ありません。
お心当たりがあれば、ご連絡ください。

 

 となんともビミョーな問い合わせ!!10年前ならいざ知らず、タイムスリップでもしたかのような錯覚を覚えた。しかし、もちろん親切な僕は懇切丁寧に対応し"Peter&Nancy"の歌詞を差し上げた。差し上げたからには演奏しているところが見てみたいものである。最近はめっきり足が遠のいた宝塚の春フェスにのこのこ出かけていった。お目当てのバンドは『ブルーラプ』である。
 ちゃんとしっかり上手に演っていた。"Peter&Nancy"以外にもハーベスト・ムーンのレパを・・・18、9のガキンチョが・・・・話によるとメンバーのお父さんがハーベスト・ムーンのレコードを持っていて、それが気に入ったらしい。もうオリジナルメンバーは生存していないとでも思われたのだろうか? ここでも時の流れを感じずにはいられなかった。
 それにしても、自分たちのレパートリーを目の前で演奏されるというのは気恥ずかしいものだが、反面嬉しさもあって帰宅後すぐにハーベスト・ムーンのメンバーにメールしてみた。以外にも反応がよく一度集まろうという事になった。

再活動するにあたって

 

 2002年6月のとある日スタジオを予約した。ちょっと練習してみてダメっと思ったら、すぐに宴会に切り替えるという条件付きである。メンバーのそれぞれとは適当に会う機会はあったものの楽器をもって揃ったのはリユニオンのため集まった1994年の10月以来、練習するのは1992年3月以来だから実に10年ぶりだった。音を出してみて驚いたのは、やっぱり全然弾けて無いんだけど、別にこれでもいいのかなぁ、と元々のサウンドのクオリティーを忘れてしまっていることだ。10年の日々は人間に我慢と痴呆を与えた。 時が我々に与えたのはそれでけではなかった、精神的や時間的余裕、技術の発達により連絡方法の拡大、HP上での意見交換など恵みも多数あった。 そうするうちにメンバーのひとりが『どうせやるなら単発のリユニオンではなく、ライブ活動まで視野にいれたバンド活動の再開にしたい』と・・・
 

 10年前は確かにバリバリ活動していたような気がします。今そこに戻ることこそがベストとは思わなくなりました。適当に年を重ね再会した僕たちの歩き方は当分ボチボチになりそうです。それはそれで、結構楽しっくて良いんです。また、盛り上がってバリバリになるかもしれないし、ならないかもしれないけど、それもありかな、と思う今日この頃です。

植田雅也