ハーベスト・ムーンのプロフィールを何か書こうと思ったのですが、結局以下の文が一番我々を的確に表現できている様な気がしたので、全く無断で某MS誌1989年8月号の記事を引用させていただきます。。 |
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時は1987年6月、1人の少女が、練習場のドアをノックした。 1988年5月、1人の男が練習場のドアをノックした。 1988年5月22日、京都・円山のブルーグラス・フェス。そこで更に大きな落とし穴が僕たちを待ち受けていた。バンド名がなかったのだ。 1曲目を演奏し終えて、僕がMCをすることになった。 フェス・シーズンも終わろうとしている1988年9月、ナンシーは僕たちに衝撃の告白をした。 それからというものやる事なす事トントン拍子に進み、といってもパンダのリズムではない、遂にレコードを創ることを決意し、ナンシーは京都と広島を何度も行き来し、血の出る様な練習をこなしたのである。また僕たちは作曲活動にも励んだ。 ここで、ハーベスト・ムーンのみんなにインタビューしてみた。 ピーターは「もっと余裕があったら、もう一発やって、スッキリしたい」。何のこっちゃよくわからんが、また、こんなことも言っていた。「僕たちの音づくりはバランスが大切だ。そういう意味で、ハーベスト・ムーンのミックス・ダウンは大変苦労した。そして、僕らの音楽は全力疾走ではなく、ジョギングだ」と語り終えた横顔に、男のダンデイズムを感じたのは僕だけだろうか。 また、もーちゃんはこう語る。「荻野目洋子とは、もーちゃん、おぎのめちゃんと呼び合う仲なんですよ。でも、まだ直接会ったことはありませんけど」それがどうした、とつっこみたい気持ちを皆ががまんしていた姿に、僕は友情という言葉の意味がわかった気がした。 そして、おのちゃんは「もしもし、そうそう、だからエー、そのー、まかせるわ」と、両手をひろげ空にかざし、スイカを表現してくれる。その無意味な存在こそ、我がバンドの源動力でもある。 「僕らはフェミニストです。初めて作詞をしてうれしかった。見てて気分のいいバンドはいいバンドです」と、バイオリンのちょっちゃんは言いたいことだけを言ってくれた。本当に変な人たちだ。 レコードにはクレジットしなかったが、多田木勝男(BOSSリズム・マシーン)はリズムは正確だが、人間味がない。その他、ドブロのアンドレ佐藤、バンジョーの山本雅幸、沢田直隆、マンドリンの宮崎勝行がサブ・メンバーとして控えているが、みんな大変迷惑しているようだ。 |
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それまで、勢力的に活動していた反動でバンドが無くなる淋しさからかメンバー達の心は病んでいった。ある者は三管式の幻灯機に虚構の世界を彷徨い、ある者はお犬様に使え盲目となり、またある者はバテレンの教えに懺悔の日々・・・ |
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それは、ある一通のメールから始まった。 こんにちは。
となんともビミョーな問い合わせ!!10年前ならいざ知らず、タイムスリップでもしたかのような錯覚を覚えた。しかし、もちろん親切な僕は懇切丁寧に対応し"Peter&Nancy"の歌詞を差し上げた。差し上げたからには演奏しているところが見てみたいものである。最近はめっきり足が遠のいた宝塚の春フェスにのこのこ出かけていった。お目当てのバンドは『ブルーラプ』である。 |
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2002年6月のとある日スタジオを予約した。ちょっと練習してみてダメっと思ったら、すぐに宴会に切り替えるという条件付きである。メンバーのそれぞれとは適当に会う機会はあったものの楽器をもって揃ったのはリユニオンのため集まった1994年の10月以来、練習するのは1992年3月以来だから実に10年ぶりだった。音を出してみて驚いたのは、やっぱり全然弾けて無いんだけど、別にこれでもいいのかなぁ、と元々のサウンドのクオリティーを忘れてしまっていることだ。10年の日々は人間に我慢と痴呆を与えた。
時が我々に与えたのはそれでけではなかった、精神的や時間的余裕、技術の発達により連絡方法の拡大、HP上での意見交換など恵みも多数あった。 そうするうちにメンバーのひとりが『どうせやるなら単発のリユニオンではなく、ライブ活動まで視野にいれたバンド活動の再開にしたい』と・・・ 10年前は確かにバリバリ活動していたような気がします。今そこに戻ることこそがベストとは思わなくなりました。適当に年を重ね再会した僕たちの歩き方は当分ボチボチになりそうです。それはそれで、結構楽しっくて良いんです。また、盛り上がってバリバリになるかもしれないし、ならないかもしれないけど、それもありかな、と思う今日この頃です。 植田雅也 |